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zoom RSS 野球ができるしあわせ。

<<   作成日時 : 2005/08/08 17:06   >>

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高野連と広島の高陽東との間で起こったこと…世界平和を願い、亡くなった方を悼む被爆地の高校球児に対して放たれた心無い大人の一言…。
どう取り繕っても一度口をついて出た言葉は取り戻せない。

彼らは、ただ言いたかっただけ…。
平和な世界だから大好きな野球が出来る、と。

事件が起こった日、偶然、NHK BS1で「プロ野球が生きがいだった」という番組を観ました。戦場に散った”職業野球人”沢村栄治さんのところだけ観れたんですが、戦場で手榴弾の投げすぎで肩を壊して帰国…巨人に戻ってもかつての剛速球は投げれない…でもファンも理由を知っているから彼を責めない。沢村投手もファンも辛かっただろうと思います。
移籍を勧めた巨人の職員に対して「巨人の選手で終わりたい」と野球を辞め3度目の戦地へ赴く途中乗っていた輸送船が撃沈されて帰らぬ人となりました。(享年27歳)

でも、娘さんの話では、「父はまだ野球がやりたかったのでは」と。「もし職業野球が続いていたら俺達は先駆者だから…と言ってたらしいので、今頃天国で笑っているかも」と話していました。
沢村投手の母校京都商業(現・京都学園高校)には、沢村投手のブロンズ像と、「平和だからこそ野球が出来る事に感謝」というモットーが受け継がれているとか。
本格派に与えられる沢村賞の映像でホークスの斉藤和巳投手の映像が映った時、怪我をしてから「感謝」という言葉を大切にしている和巳が受賞したのも何かの縁かな…と思いました。

8月15日の正午に甲子園で試合を止めて黙祷する光景は毎年見てきました。
でも8月6日に大会が始まる偶然、甲子園で待機している8時15分に球児が黙祷出来れば、その日その時刻を知らずに育った球児は考えるきっかけが出来たのにと思うと残念です。

以前、8月9日に友人4人で車で移動していて、丁度爆心地付近の浦上川沿いに差し掛かり、11時2分のサイレンと同時に路肩に車を停め(他のほとんどの車も停めていた)、一分間の黙祷を始めると、唯一他県出身者の女性が「どうしたと?何で車停めると?何があったと?」と必死で訊いてきました。自分達にとっては当たり前だと思っていた事も、他県の人は知らないんだ…と、ショックを受けました。

毎年、8月6日の広島原爆の日、さだまさしさんが長崎市のシンボル稲佐山の野外ステージで平和コンサート(無料)を行っています。「8月6日に長崎で演る事に意味があるんです」というさださんの趣旨に賛同して、加山雄三さんや故村下孝蔵さんやBEGINや…色んな方が好意で出演し、その時に、声高に叫ぶ事なく、音楽を楽しみ、楽しめる平和な時代について考え、お客さんも一体となって時間を共有しています。
毎年CMしなくてもいつの間にか引換券は無くなり(観客3万人だったとか)、稲佐山へのシャトルバスの発着場は毎年それが当たり前の様に人々が集い登って行き…毎年の風物詩としてすっかり定着しています。
今年の分は下記で観れます。
 ↓
「平和への祈り 2005 夏 長崎から さだまさし」 8月13日(土) 13:00〜16:30 BS2


また、原爆が普通の市民の明日を奪った…という視点で作られた映画が有ります。
最近では宮沢りえ主演「父と暮らせば」を撮った黒木和雄監督の1988年の作品TOMORROW/明日です。

桃井かおり、南果歩、仙道敦子の3姉妹、原田芳雄、長門裕之、馬渕晴子、田中邦衛、黒田アーサー等が出演していて、8月8日〜9日の原爆投下までの一日を、それぞれの時間の同時進行で描いています。ここでは半径 2km以内の人々しか登場しません…つまり全員亡くなる運命で…。
桃井かおりは出産、南果歩は祝言をあげ、仙道敦子は恋人が翌日出征で…。

でも、印象に残ったのは捕虜収容所での黒田アーサー(通訳役)と収監された捕虜(米英軍人)の会話。収容所が劣悪な環境で上官に改善を要求するも聞き入れられず、逆に捕虜に慰められるシーン。
また、カトリックが多い長崎で、もし米軍が上陸してきた時に娘の命を助けたい…と、当時敵国宗教で肩身の狭かったカトリック信者に「何か、分けて下さい」と恥を忍んでお願いする母親に、黙ってマリア様のカードを手渡すご婦人。そんな切羽詰ったなかにも相手を思いやる人々…。
そして、8月9日になると、バックにずっとストップウォッチの音が響きます。
みんな普通に生活しています。そしてB29の気配を感じ、空を見上げた時に画面が真っ白になり…原爆が炸裂し画面は真っ白なまま終わります。


私の父は被災して逃げてきた人々の救助活動にあたった二次被爆者です。
原爆手帳(持っていると国の補助で医療費免除)を申請する際に第三者2人の証明と、被爆状況の手記を提出しなければならず、早くに申請し交付を受けていた父から、「手記を読むか?」と訊かれた私は…怖くて読む事が出来ませんでした。でも、父が元気なうちに読もうと思っています。

不幸な形で広島、長崎や原爆の事が話題になってしまいましたが、この機会に色々知ってみませんか?

まず、知って欲しいので…。
広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム
長崎原爆資料館

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
少し深く考えてしまいました。修学旅行の時に長崎へ言ったときにみた資料館、語り部さんのお話の衝撃は私が実際にその時にいた長崎はとても穏やかな町で想像もつかなかったけれど、忘れてはいけない事だと思ってます。
高野連の考えは、長崎や広島の人の心を踏みにじっているようにしか思えてきません。
60年で薄らいでゆく意識と報道などでよく聞きますが、改めて考えてみる機会なのではないかと思います。
キラキラ!
2005/08/08 23:34
>キラキラ!さん
コメント有難うございます。
修学旅行で来館されたんですね。一人でも多くの方に訪れて欲しい場所です。語り部の方も高齢化してきました。私達が風化させない様に次の世代に伝えなければ…と思います。
ぶん♪
2005/08/09 03:07
一日遅れですが、僕の知人の被爆者のお父さんもようやくみんなに語り始めました。
ずっと、あんたが語らんといけまーが、原爆がどがーにひでーもんじゃったんか、今時のわかーもんは知らんのんじゃけー、へーじゃけーピカドンが広島に落ちたけー戦争が終わったんじゃ、いうて好きな事を言い寄るんじゃ。
と、口説いていたんですが、思い出したくないということで、語る事はしなかったおじさんが、このままじゃ、又戦争になるかもしれんと言うて、語り始めました。

自分の目で実際に見た事実なんで、茶髪のお兄ちゃんやお姉ちゃんも真剣に聞いてます。

その方は建物の中にいて、壁に守られて助かったが、窓の部分にいた人は身体が半分焼けて溶けてしまっていたそうです。
わずか30センチが生死を分けたといっておられます。

わけのわからんことを書いてすんません。
たんろん
2005/08/09 08:40
私の故郷は小倉です。
生まれた時から「小倉は原爆の標的だった」と聞かされてきました。そして、ほんの少しの偶然から「広島」「長崎」と違う運命を歩いた街だったと・・・。
幼稚園の頃まで近くに米軍管理の旧日本軍の弾薬庫があり、まだ戦争の風景が残っていた。その近くで無邪気に遊んでいた。
ひょっとしたら、自分はこの世に誕生できなかったのかもしれないのに・・・。この米軍の原爆のために・・・。

「広島」を初めて訪れたのは1975年。長崎は1979年。それから何度となく足を運んだ。上京してからもその日に黙祷は欠かさない。昨年は東京でのさだまさしさんの平和への祈りコンサートにも家族で行きました。

小倉の街に長崎と同じ平和の鐘ができてもう20年以上経ちます。
かめ吉
2005/08/09 09:44
>たんろんさん
語り部の方も、やはり思い出したくない…という方がたくさんいます。お知り合いの方も語り出すまで辛かったと思いますが、体験した方の言葉にはどんな有識者のコメントもかないません。だから茶髪の兄さん達も真剣に聴くのでしょう。私も勇気を出して父から聴かなければ…と思います。
ぶん♪
2005/08/09 13:44
>かめ吉さん
第一目標が小倉陸軍造兵廠だったそうですね。「平和の鐘」…小倉の方が鎮魂して下さっていた事、今日初めて知りました。有難うございます。
「もし…」という思いで過ごされてきたんですね。
世界中の人が「もし自分や自分が愛する人が…」と思ってくれたら…。実際に経験しないと分からないなんて哀しすぎます。
ぶん♪
2005/08/09 14:26

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